長 有紀枝
立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科・社会学部教授
難民を助ける会(AAR)会長 当財団理事
民の「理念」と国際貢献
坂口国際育英奨学財団(以下 財団)に関わらせていただくようになってしばらくの間、財団は私にとって、元日本赤十字社の中田晃さんが事務局長を務める団体だった。長年関わってきた国際協力NGOの仕事を通じて知己を得た中田さんは、日本赤十字社の国際畑を歩かれ、1996年末に発生した在ペルー日本大使公邸人質事件の折には、赤十字国際委員会(ICRC)の一員として、ペルー政府とトゥパク・アマル革命運動との間で「中立」な仲介者として人質救援活動に尽力された。そんな中田さんは、私にとってまさに人道主義の体現者だ。
それがいつしか、中田さんとの友情はそのままに、両者の関係は逆転した。蜂谷真弓 現代表理事のお人柄に触れ、奨学生の活躍に目を見張り、財団が脈々と受け継いできた「理念」「信念」とそれを現実に落とし込む有言実行の姿勢や心意気に触れたからだ。
その理念とは、一昨年、惜しまれつつ他界された坂口美代子 初代代表理事が、御父上 坂口太一氏から受け継いだ、財団のHPトップに掲げられている言葉である。
「私たちは生かされている。人として生きることはこれに感謝し、企業経営は社会恩に報いることである。」
勤務先の立教大学で聞いた印象的なエピソードがある。同僚の職員A さんの前職は、某有名国立大学である。財団が助成対象にしていた大学ではなかったそうだが、仕事柄、財団の存在を知っていた。曰く、「企業の奨学金の中には、資金洗浄的な匂いを感じずにおられないものもある中で、坂口財団の奨学金は『理念』に基づいた奨学金で、対象となっている大学が羨ましかった」。「理念」は人を引き付けるのだ。
財団の理念に強く引かれるもう一つの理由は、私が会長をつとめる難民を助ける会(AAR)との親和性だ。AARは、1979年に当時67歳だった相馬雪香が設立したが、その背景にあったのは、父親尾崎咢堂の「日本が戦争に突き進んだのは、日本が世界の孤児になってしまったからだ。二度と再び日本を世界の孤児にしてはならない」という言葉だった。
1970年代、大量のインドシナ難民の流出を前に、この言葉が常に頭にあった相馬は難民支援を通じて、世界とつながろう、日本の善意の伝統を世界に示そうと、何の後ろ盾もないまま、AARを立ち上げた。
相馬の父親は政治家だったが、私が20代後半に出会った相馬は、髪を素敵なネットでまとめたもうすぐ80歳を迎えようかというおばあさん、まさか、その老婦人の口から、天下国家と日本の役割を聞くとは思ってもみなかった。以来、今日まで、「官」ではなく「民」の立場で、国際社会における日本の責務を果たす、というのはAARという組織のミッションであり、私個人のミッションでもある。
坂口太一氏の言葉と、それを忠実に実現・継承されてきた、初代、そして現代表理事の姿に、私は相馬と出会った時と同じ感慨、感動を覚える。そして設立から30年後、新たに、その対象を海外に学ぶ日本人留学生にも広げるという決断もまさにこの趣旨に沿うものだと思う。理事として、奨学生の活動報告、研究報告を聞き、その活動の一端に触れさせていただくことを本当に幸いだと思っている。