奨学生 レポート

外国人奨学生の顔写真

波多野 綾子
2022~2024年度奨学生
オックスフォード大学 博士課程 法学部

国際人権の課題とその展望 : 日本のCEDAW審査参加を経て

 近年、国際社会における人権の保護と促進は、さまざまな政治的・経済的要因によって厳しい状況に置かれています。国際人権メカニズムは普遍的人権を保障する枠組みとして機能してきましたが、国家の主権と国際人権規範の対立や執行力の欠如といった課題が指摘されてきました。特に、近年、一部の国家の国際的な協調を軽視する傾向やポピュリズム政治の台頭により、人権保護の後退が懸念されています。米国の新政権の政策やトランプ大統領の行動に象徴されるように、国際刑事裁判所(ICC)、国際司法裁判所(ICJ)、国連など、法の支配や人権、多国間協力を重視する機関の活動が制約される傾向も見られます。このような状況の中で、国際社会がどのように人権を擁護し、制度的な枠組みを強化していくかが重要な課題となっています。

 私は渡英前、国連でジェンダー平等と人権・持続的開発に関する業務に携わっていました。そのご縁もあり、選択的夫婦別姓の実現を目指す日本の市民団体(一般社団法人「あすには」)から声をかけていただき、2024年10月にスイス・ジュネーブの国連欧州本部で開催された女性差別撤廃条約に関する日本政府報告書審査に参加することになりました。本レポートでは、女性差別撤廃委員会(Committee on the Elimination of Discrimination Against Women:CEDAW)の審査プロセスに参加した経験を事例として取り上げ、国際人権制度の現状と課題、そして今後の展望について考察したいと思います。

 女性差別撤廃条約の正式名称は「女性に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」(Convention on the Elimination of All Forms of Discrimination Against Women)で、1979年の第34回国連総会で採択され、1981年に発効しました(日本は1985年に締結)。この条約は、女性に対するあらゆる形態の差別を撤廃し、ジェンダー平等の実現を目的とするものです。女性差別撤廃委員会(CEDAW)は、締約国の条約実施状況を審査するために設置され、23名の多様なバックグラウンドを持つ委員によって審査が行われます。締約国は定期的に国連へ政府報告書を提出し、CEDAWは政府との「建設的対話」を経て、締約国に「勧告」を含む見解を提示します。

 2024年10月17日、COVID-19の影響による延期を経て、前回の2016年の審査から8年ぶりに日本の審査が実施されました。今回の審査には、100名を超える市民社会の代表が参加しました。審査そのものは17日に行われましたが、市民社会の活動の主戦場はその前にあります。審査に際し、通常、政府の報告書、市民社会(Civil Society Organisation:CSO)からの報告書、独立人権機関による報告書の3種類が事前に提出されます。しかし、日本には独立した人権機関が存在しないため、政府報告書とCSOからの報告書のみが事前に提出されました(今回、合計65本(公開44本、非公開21本)ものCSO報告書が提出されました)。

 私たちも、審査の前に設定される締切に向けて、様々な状況に置かれた女性たちの声を聞きながらレポート作成に励みました。改姓による事務手続きの本雑さだけにとどまらない、アイデンティティや格差、構造的差別の問題など、レポートを作成しながら、問題の根深さに改めて気がつかされました。また、「あすには」は事前にクラウドファンディングでメンバーのジュネーブ派遣のための資金を募っていたのですが、そこに寄せられた支援やメッセージを見るだけでも、ジェンダー差別や選択的夫婦別姓の問題にいかに多くの人が関心を持ち、変化を待ちわびているかが分かり、ジュネーブに派遣されるメンバーへ託されたものの大きさを実感しました。

 会期中は、公式・非公式に設けられたCEDAW委員たちと市民社会の対話に出席、1分間という短い時間でNGOが訴えたい要点を効果的に伝えるにはと頭を絞り、スピーチを行いました。さらにNGOのメンバーと共に国連ビル内でCEDAW委員を見つけて個別にアプローチを行い、レポートサマリーを手渡しながら、選択的夫婦別姓に関するデータや要点を伝えるなど、審議での質疑や勧告に反映されるよう働きかけ、委員の質問などに不眠不休で追加情報を調べ上げ、提供しました。

 こうした市民社会の働きかけの成果もあり、審議において、CEDAW委員からは様々なイシューについて、具体的な数値やデータに基づいた質問が投げかけられました。一方で、日本政府の回答は、現行法の読み上げや従来の回答の繰り返しに終始する場面も多く、「建設的な対話」が効果的に行われていたとは言い難い状況でした。10月末に出されたCEDAWの総括所見では、政府に選択的夫婦別姓に関する法改正を促し、対応のフォローアップ報告を求める勧告が出されました。選択的夫婦別姓の他にも、女性に対する暴力や、セクシュアル・リプロダクティブ・ヘルス/ライツ(SRHR)など、ジェンダー平等を推進し人権侵害を防ぐためのあらゆる側面からの重要な勧告も含まれていました。

 「勧告」という名前で誤解されがちですが、これはRecommendationの訳であり、条約を効果的に実施するための委員からの対話に基づく「アドバイス」です。選挙で世界中から選ばれたジェンダーの専門家であるCEDAW委員らは政府でも市民社会でもよりよい条約実施のための具体策を求めれば、他の国の事例なども含めて喜んで議論に参加し、協力してくれます(卑近な例ですが、私の指導教員を思い出します。とても厳しいコメントをくれますが、それは研究をよいものにするという目的のため、そして議論をしたいときは常にオープンでいてくれます)。人権の保護と推進において、建設的な「対話」は不可欠な要素です。対話を通じて、多様な立場や価値観を持つ人々が相互理解を深め、共通の課題に取り組むことが可能となります。また、対話は社会の分断を修復し、平和的な共存を可能にします。差別や偏見が根深い状況では、建設的な対話の場を設けること自体が困難な場合もありますが、小さな対話の積み重ねが社会の認識を変え、最終的には法や制度の変革につながる事例を歴史は見てきました。人権メカニズムは、けして強制的・一方的なものでははなく、様々なステークホルダーの絶え間ない努力に基づく対話と相互理解によって創られていく動的過程であると考えています。

 CEDAW会期に初めて参加した日本のNGOメンバーは、「委員が私たちの訴えに真摯に耳を傾けてくれた」ことが非常に印象に残ったと語り、総括所見を読み「自分たちの声が届いた」と、涙ながらに思いを語っていました。このように、CEDAWにはエンパワーメントの側面や温かなサポートがあることを感じる一方で、国内では声を上げても「聞かれない」状況に苦しんでいる人が数多くいることを改めて思い知らされます。だからこそ、変化や助けを求める小さな個人の声がかき消されることのない社会を築くために、私も粘り強く取り組んでいきたいと強く思いました。そのためには、法律の整備をはじめ、国内外の司法制度が適切に機能することが不可欠であると考えています。今後も課題は山積し、先行きには暗雲が立ち込めていますが、引き続き尽力してまいります。

 さて、最終レポートはオックスフォードの外での出来事を中心に語る形となりましたが、このような貢献ができたのも、オックスフォードでの3年間があったからこそだと確信しています。オックスフォードでは、大学内外の研究者、法律家、市民団体と連携し、学び合う機会を得ることができました。これにより、学術的な研鑽や理論の習得にとどまらず、実際の法政策の形成過程を学びながら、その応用や実務的な視点も養うことができました。また、坂口財団奨学金を申請した際、「実務と理論を架橋する研究を行いたい」と書いておりましたが、この3年間はまさにその目標に近づくことができた期間だったと感じています。

 今後の展望として、私は研究者としてのキャリアを積み重ねながら、日本やそれ以外の国・地域・コミュニティにおいても、人権課題の解決に貢献したいと考えています。具体的には、国際人権基準を踏まえた政策提言の実施、大学での教育活動を通じた次世代育成、そして市民社会との協力による啓発活動など、多角的なアプローチを取っていきたいと考えています。いずれにおいても、オックスフォードにおける研究で培った、グローバルとローカルの規範の相互作用、規範の土着化(vernacularisation)の視点を大切にしていきたいと考えています。

 本奨学金のご支援がなければ、これほど充実した研究活動を行うことは難しかったと感じております。また、本奨学金のご支援のおかげで、同じようにオックスフォードで、日本で、研究や生活に励む奨学生の仲間たちと出会うことができました。この場をお借りして、財団の皆様ならびに支援者の皆様、また奨学生の皆様に心より感謝申し上げます。いただいたご支援とご恩を社会に還元できるよう、今後も研究を続けながら、目標の実現に向けて精進してまいります。また、坂口財団の皆様、奨学金を通じてご支援くださった多くの皆様、そして奨学生の皆様とのご縁をこれからも大切にしていきたいと存じます。奨学生の期間が終わった後も、アルムナイとして引き続きどうぞよろしくお願いいたします。最後に、財団の皆様、支援者の皆様、そして奨学生の皆様のご健康とご多幸、ご成功を心よりお祈り申し上げます。

(あすにはのメンバーとともに、ジュネーブにて)

(あすにはのメンバーとともに、ジュネーブにて)