藤田 綾
2022~2024年度奨学生
オックスフォード大学 博士課程 社会介入学部
ON2024「”あの事”があったから今の私がある」
人生は選択の連続である。私の人生においても、方向を決める重要な出来事や出会いがあり、たくさんの人の言葉に動かされ、今の自分がいる。紹介したいエピソードは尽きないが、このエッセイでは障害児者の支援に導いたパキスタンでの出会いに焦点を当てて共有したい。
2017年、パキスタンのラホール市で、私はある人物を訪ねていた。その名は、シャフィーク・ラフマンさん。車いすユーザーであるシャフィークさんは、障害当事者団体(自称”Society for the special persons”)マイルストーンの創設者であり、偉大で寛大なリーダーである。私が彼に障害者をエンパワーすることの大切さを教えてもらった日のことは今でも忘れられない。
実は、彼に会う前から私は彼の数々の業績を耳にしていた。墨田区本所にあるオーダーメイド電動車いすの改造・製作・修理を行う有限会社さいとう工房が、NPO法人さくら車いすプロジェクトを立ち上げ、アジア各国の障害者リーダーに中古車いすを送る活動をしていた。このプロジェクトでは、マイルストーンに対して車いす技術の研修も行っている。その前社長・斎藤省氏が、パキスタンに行ったらシャフィークさんにぜひ会ってみて、と勧めてくれたのだった。
私は、当時JICAのプロジェクトで職業訓練所の技術支援に携わっていた。障害のある若者も私たちが支援していた職業訓練所のコースに応募してほしいと思い、障害者グループのひとつであるマイルストーンに連絡をしてみた。同じ市内で活動していたにもかかわらず、普段の業務に圧倒されて会いに行けていなかったが、こうして会う口実もできて、訪問してみたのだった。
リーダーのシャフィーク氏は、会うなり、「こんにちは、マイルストーンにようこそ!」と日本語で温かく笑顔で迎えてくれた。彼はダスキンのアジア太平洋障害者リーダー育成事業で来日し、一年間日本で勉強したことがあり、日本・日本人に対して大いなる敬意を持って接してくれる方であった。マイルストーンの仲間をひとりずつ紹介し、建物の中を案内してくれたのち、私にたくさんの話をしてくれた。
「障害者を社会・経済の負担だと捉えてはいけない。障害者を家で隔離しておけば、家族も世話をするために仕事を離れなくてはならない。けれども、多くの障害者は周りの配慮があれば働くことができる。つまり、彼らは仕事があれば、経済の担い手になるのである。」今まで何回聞いてもピンとこなかった「障害インクルージョン」という概念はまさにその発想であると気付かされた瞬間であった。今回は障害者雇用促進のために訪れていたにもかかわらず、当時の私は、固定概念に囚われ、多くの障害者は福祉を受ける人として捉えていた。
彼は続けた。「例えば、10%の人口が障害者だとしたら、その人口の家族の4人も障害者の家族として、周りからの偏見や様々な負担を強いられることになる。つまり人口の50%は障害に関わっている。そして、多くの人は、今、障害がなくても、病気・事故、または老後に、人生の中のある時期に障害のある生活を送ることになる『障害者予備軍』なのである。」衝撃的であった。自分にとって、世の中の一人ひとりにとって、障害がそれほど近いところにあったなんて。
そして、シャフィーク氏はグループの仲間たちと話す時間を設けてくれた。その一人は、ある30歳の先天性の身体障害のある女性だった。彼女は、29年間、一度も太陽の光を浴びたことがなかった。家族は彼女が生まれてから一度も彼女を外に出さなかった。彼女は親戚の結婚式があっても連れていってもらえることはなかった。ある日、生きる意味すらわからなかった彼女を、マイルストーンでコミュニティリーチアウトをしていたメンバーが訪ねてきたのだった。
「私は生きる意味を与えてもらえたのだ。この友人が私を見つけ出して、仲間の輪に入れてくれたように、私のような境遇に置かれている人を一人でも多く見つけ出し、社会に取り込みたい。」彼女は、いきいきと目を輝かせて言った。
これまで開発支援に携わっていた中で、こんなに心が動かされたことがあっただろうか。道や橋をつくること、電気を届けること、雇用をつくること・・・これらはどれも人の生活を豊かにする必要な支援である。それでも、私は人の尊厳に関わる仕事—人がエンパワーされ、エンパワーされた人が次の人をエンパワーする—そんな循環を生み出す支援をライフワークにしたいと心に決めたのである。
これが、私の障害児者支援の道に足を踏み込んだ瞬間である。パキスタンで女性の雇用支援に関わる中で、コミュニティには障害児者、エスニックマイノリティ、宗教マイノリティ、難民・国内避難民、と社会の中で弱い立場に置かれた人々が存在し、支援を必要としているのに多くの人々が声を上げることもできずにいることに気付かされた。さらに、これらの属性が交差して二重にも三重にも重なる人たちがいる。こうして、その後私は、難民の障害児者支援や障害児に対する虐待防止の研究にどっぷりと浸かっていくことになったのである。