奨学生 レポート

外国人奨学生の顔写真

パティポーン・ヨードスラーン
タイ出身/2016年度奨学生
筑波大学 人間総合科学研究科 博士課程修了

日本で得た「まなざし」

 日本での留学から10年が経ちました。2016年、坂口国際育英奨学財団のご支援により、筑波大学大学院で学んだ日々は、今の私の人生とキャリアに深く根付いています。初めて訪れた日本では、文化の細やかさや人と人との距離感、自然やまちとの丁寧な関係性に触れ、建築や都市の見方が大きく変わりました。あの時に得た「まなざし」は、帰国後の私の研究や教育の根幹となり続けています。
 現在はタイ国カセサート大学建築学部に所属し、助教として文化遺産、景観、そして持続可能な地域づくりに関する授業や研究を行っています。特に、川や運河に沿って形成された人々の暮らし、つまり「リバーカルチュラル・ランドスケープ(水辺の文化的景観)」に注目し、タイ各地の川沿い集落の歴史や食文化、生態系と人間の関係性を明らかにするプロジェクトを進めています。

川に学ぶ

 タイではこの10年で政治や社会の構造が変わり、都市部では急速な開発が進みました。高層マンションが立ち並び、かつての水上交通や伝統的なマーケットの風景は消えつつあります。ですが、そんな中でも、若い世代を中心に「私たちらしい暮らし」や「地域の誇り」を取り戻そうという動きが少しずつ広がっていると感じます。 そうした背景の中、私は教育の場でもフィールドに出ることを重視し、「川に学ぶ」プログラムを実施しています。
  最近では、カヤックやスタンドアップパドルボード(SUP)、まち歩きといった体験型のアプローチを通じて水辺の歴史や人々の暮らしを学ぶ「水の遺産教育」に取り組むとともに、食文化や地域ブランドの形成にも力を入れ、地域住民との協働によるプロジェクトを進めています。


水上の視点

水上の視点

 たとえば、タイ中部のアンパワーでは、朝の静かな水路をゆっくりと進みながら、両岸に連なる木造家屋や伝統的な水上市場の風景にふれました。パドルを漕ぐ音とともに、川面に映る建物や僧侶の読経の声が重なり、時間の流れがゆるやかに感じられる空間が広がっていました。こうした水辺の景観は、観光地化の進行とともに変化しつつある一方で、地域に根ざした暮らしや文化がまだ色濃く残る貴重なエリアでもあります。学生たちは、水上での移動中に地域の方々とあいさつを交わし、ときには手渡しで寺院に奉納される花や線香を届ける機会もありました。このような小さなやりとりを通じて、水と信仰、そして暮らしが日常の中でどのように繋がっていたのかを、身体を通して学ぶことができました。また、川から見るまちの風景と、陸路から見るそれとでは印象が大きく異なり、水上の視点だからこそ見える生活の痕跡や空間の使われ方に気づいた学生たちは、それぞれにスケッチやメモを取りながら観察を続けました。さらに、まち歩きでは古い家屋や小さな祠、地元の人々が語る記憶の断片に耳を傾けながら、都市開発によって変容するまちの姿と、そこに息づく日常の営みの両方を見つめ直す機会となりました。自然と文化が交差するアンパワーのような場所での体験は、建築や景観を学ぶ学生にとって、単なる観察にとどまらず、問いを立て、対話を生み出す原点となっています。

日本との連携

 さらに、ラオス南部のシーパンドン地域では、筑波大学をはじめとする日本の大学の先生方と連携し、リサーチャーとして現地調査に取り組んでいます。この地域は、メコン川の中流域に広がる大小さまざまな島々と水路からなる複雑な川のネットワークに囲まれており、人々の暮らしと水との関係が今も色濃く残る貴重な文化的景観を形成しています。私は特に、川沿いの集落における空間構成や家屋の配置、水との距離感に注目しながら、そこに息づく精霊信仰や祖霊祭祀、日常的な水の儀礼といった無形文化遺産との関係性を調査しています。調査地では、仏教寺院と精霊を祀る社が共存する空間のあり方や、住民が日々行う供物の捧げ方、冠婚葬祭と水のかかわりなど、目に見えない文化の重層性が空間の中に丁寧に織り込まれていることを実感しました。こうした信仰と生活の関係性は、都市化が進むタイとは異なる時間の流れのなかで継承されており、東南アジアのリ バーサイドに共通する文化的コードを再解釈するうえでも非常に示唆に富んでいます。このような現地の知見をもとに、私は川辺における信仰や無形遺産の空間的現れを記述・可視化し、それを将来的な文化的景観の保全や教育活動にもつなげていきたいと考えています。

 また、私が立ち上げた「リバーフロント・リサーチ・アライアンス(Riverfront Research Alliance)」は、NGO的な機能を持つ研究連携体として、研究者・学生・地域のリーダーをつなぎ、水辺の集落や文化景観に関する共同調査や支援を行っています。特に、小規模な食品や飲料の生産と川の生態系との関係性に注目し、こうした営みが地域のアイデンティティを映し出すと同時に、地域のレジリエンスを支える力になり得ることを実証しています。これらの活動は単なる学術研究にとどまらず、地域ネットワークを強化し、タイ各地の河川沿いに広がる文化的景観の価値を再評価し、守っていくための実践的な基盤づくりにつながっています。

留学の意義

 「留学」という経験は一時的なものではなく、その後の人生においてもつながり続ける関係性を育むものだと、今改めて実感しています。日本での学びは、単なる知識の習得にとどまらず、人との出会いや、価値観を深める対話、そして自らの立ち位置を見つめ直すきっかけとなりました。坂口財団を通じて得たご縁が、今でも私の中で大きな意味を持ち、国や文化を越えて築かれる「志のネットワーク」のようなつながりが、私自身の原動力にもなっています。
 そしてこうして再び声をかけていただけることに、心から感謝申し上げます。これからも、日本とタイ、そして地域と世界をつなぐ学びと実践の場づくりに取り組んでまいります。大学における教育・研究にとどまらず、地域の人々と共に歩み、現場から生まれる知恵や想いを未来へとつなげる仕事を通じて、社会に少しでも貢献していきたいと考えています。変わりゆく世界の中で、地域に根ざしながらも国際的な視点を持つことの大切さを、これからも後進に伝え続けていければと願っています。