奨学生 レポート

外国人奨学生の顔写真

陸 晨思(リク シンシ)
中国出身/2024年度奨学生
上智大学 文学研究科 博士後期課程

書を捨てて町へ出ても(5月エッセイ)

 昔、とあるテレビ番組の街頭インタビューで、「東京はね、お金持ちと若者しか楽しめない街なんだよ」との一言を聞いた。何の質問に対する答えなのかはもうすっかり忘れたが、この言葉だけが記憶の中に鮮明に残っている。今よく考えると、東京での生活には楽しいことがたくさんあるけれど、なぜか疲れも溜まりやすくなると最近ますます感じた。そして、これは東京だけでなく、世界中の大都市も同じかもしれない。

 二年ぐらい前、研究関係でパリ駐在の記者にインタビューしたことがある。その時に、場を温めるために、まず余談で「パリでの暮らしは東京と違うところありますか」を聞いた。「街頭の風景はもちろん、フランスの皆はとにかく何があったらすぐに自分の主張を言いますよ。この前屋外広告に対する抗議もあったし、コロナ禍の真最中なのにね」と返された。その後すぐに本題に入ったため詳しく聞けなかったが、インタビュー後調べてみたら、屋外広告をめぐって「過剰な広告が公共空間を侵入し、市民の「見ない権利」を侵害する」(景観規制がさらに多いが)を原因とする裁判がフランスでは珍しいことではなさそうだ。確かに、電車、掲示板、電光パネル、チラシ……東京でも暮らしていれば見ようとしなくても広告が自ずと目に入る。そして、たまたま目に映った何の役も立たない広告でも、わたしたちはそれを解読しなくてはいられなく、脳力がどんどん消耗する。こうして、おそらく冒頭で述べた都市生活の「疲れ」の正体の一部は、過剰な広告メッセージに起因すると考える。

プラットフォームでボーッとして電車を待っても、視界に常に広告がある

プラットフォームでボーッとして電車を待っても、視界に常に広告がある


 さらに、意見広告や公共広告などを除き、広告が一般に見る人の消費意欲を掻き立てる意図で作られたことが明白だ。一人一人の個性を考えた上でその人に最適な商品情報を提供するのは、AI技術が発達している現在でも完全に実現したわけでもない。そのため、広告が作り出す欲求は、ある程度「平均化」されたものとも言える。このように掻き立てられた「欲求」に飲み込まれると、わたしたちのライフスタイルもどんどん平均化していくと容易に想像できる。

某ヨガ教室のチラシ、明らかに若年層女性皆が「痩せる」を求めると想定されている

某ヨガ教室のチラシ、明らかに若年層女性皆が「痩せる」を求めると想定されている


 寺山修司が『書を捨てよ、町へ出よう』の中で、書物からの誰かの言い伝えではなく、実生活のディテールに直面して生き方を決めようと、「平均化」の時代を生きる若者に対する強烈な一喝があった。しかし、メディア技術があまりにも発達している現在、書を捨てて町へ出ても、そこにまた誰かの意図で作り上げられたメッセージが充満している。わたしたちが求めている生き方は、本当に今日の町で見つけ出せるだろうか。