閆 家欣(エンカキン)
中国出身/2023年度奨学生
日本女子大学 人間社会学部 教育学科
①旅の中に見た日本人のパーソナリティ特性
ゴールデンウィークの初日、5月3日朝8時50分、私はホームステイで世話して頂いたお婆さんの誘いで一冊の『AnimalFarm』という本を持ち、軽井沢へ出発した。
東京の都心に住んでいるから、車も免許も持たず外国人留学生の私にとって、長野にある軽井沢へ行くのは一番便利な交通手段は新幹線だと考える。ところで、この心身リラックスしようと思った旅の中、最初の思わぬ困難が起こりとなった。普段自由席を買えば基本的に座れる新幹線の状態は今日例外となった。大混雑だった。朝ラッシュの原因が考えられる。むしろ、今日は新型コロナ禍自粛時態から解放された初めての連休であるため、東京に住んでいる人たちが一気に小旅行をして行くようになったということももう一つの原因として示唆できるだろうか。私は2番目の車両に上がり、車両の入り口の手前の所でずっと重いリュックを背負って1時間くらい立ったままでいた。体力を使い切ってしまった。ところで、日本の電車での通勤ラッシュの時の風景を自然で頭の中に思い浮かべた。電車内に人いっぱい詰めているのに、後から来る人がどんどん上がって来ていることである。中国にいる時地下鉄とかをよく使うが、こんなに混んではなかった。「仕方がないから、我慢できる」というのはその車 内にいる人々の心の声だろうか。ぎゅうぎゅうと詰められた人々の顔が赤くなって身動きも取れず様子から読み取れたのである。このように外部からの環境要因で選択できずに他者とのパーソナリティ距離が強迫的にゼロにアプローチされる現象に対し、自分のプライバシーを守り、初対面の他者との物理的、心理的距離をしっかりと確保する日本人にとってはまだ堪えるだということを少し明らかにできるだろうか。こういうことから、多数の日本人の意識の中に社会的なルール(それとも社会的束縛)が自分の気持ちより優位されていることが分かった。
こうやって、思いながらやっと駅に着いた。そしてバスターミナルでシャトルバスに乗って浅間ハイロンドパークに着いた。お婆さんが迎えに来て2人が徒歩で自然豊かな森に囲まれている一軒家の所に着いた。お婆さんのお家である。そこで軽く昼ご飯を食べ終わってから、すぐバスで群馬の草津温泉駅に出発して行った。
「大滝乃温泉」へ行く途中の風景
この辺りのことをよく知っているお婆さんの案内で「大滝乃湯」に入った。最初はかぶり湯をして普通の室内温泉と露天温泉に入った。耐える熱さだから、合わせ湯もチャレンジしてみた。しかしながら、私は正しい入浴手順で温度の高さに合わせて一 番温度低い湯から温度高い湯まで次第に入浴したが、上から二番目の熱さの湯のところで湯あたりしてしまった。後でそれは45度のかなり強い湯だと知った。二番目の湯から上がりして隣のベンチの所で少し休憩してから、意識がどんどん失ってしまった。5、6分後に意識を戻って目を覚ました。自分が横になって、顔の真上に知らないお婆さんの顔が目に飛び込んだ。「おばさんたちがさっきずっと見守っていた」とそのお婆さんが言った。その後、すぐ相手に重い感謝してあげる私には意識失った間の体に残った触覚が途切れ途切れで戻ってきた。色んな人におお冷やを飲ませてもらい、冷たい濡れたタオルを体に被ってもらい、冷たい水を掛けていただいた感覚が戻って来た。そして、私の足元に座っているお婆さんがスタッフを呼び出してくれたことも知った。助かってくれた裸のお婆さんたちが一所懸命私のことを救ってくれる様子を想像しながら、暖かい気持ちが湧いてきた。
同性の間のパーソナリティ距離が異性の間のパーソナリティ距離より近くなることがある。また、パーソナリティの類似性がより高くなればなるほどお互いの親密度(好意度)が高くなることも考えられる。倒れた人に手を出すかどうか、本当に人によって異なるが、それはその人の文化背景や生成した価値観など様々な要因で影響に及ぼされるだと思う。日本でこの自己防衛性がある程度高い社会雰囲気の下で人々が一つ一つの個体として他者の命や他のことを重要視されていることが感じた。これは道徳教育の成功性のおかげでもあるだと考えられるだろうか。
こうやって、体が動けるようになった。天幕も同時に黒くなった。私はお婆さんと2人でタクシーに乗って、静かに寝ている山々を見ながら別荘に帰ってきた。一晩無事だった。