2018年11月4日
渋沢史料館見学会多種多様な企業の設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」とも言われる渋沢栄一の活動を紹介する、渋沢史料館(東京都北区飛鳥山公園内)の見学会を行いました。
JR王子駅を出発し、紅葉間近の飛鳥山を散策しながら渋沢史料館を訪ねました。ビデオで渋沢翁の生涯の概略を学んだ後、副館長様にご案内いただき、青淵文庫、晩香廬の内部を見学しました。1945年の空襲により、残念ながら旧飛鳥山渋沢邸の建物の多くが焼失したなかで現存している貴重な建築物です。いずれも渋沢翁の業績を称える細やかな装飾が見応えのある、温かな雰囲気の建物でした。
その後史料館にて渋沢翁の軌跡を辿る展示品の説明をいただきました。参加した奨学生も説明に熱心に耳を傾け、その業績や「道徳経済合一説」の精神をしっかりと学び取っている様子でした。
最後に、渋沢翁の養子であった渋沢平九郎(1847~1868年)の没後150年に合わせ行われていた収蔵品展「渋沢平九郎―幕末維新、二十歳の決断―」を見学しました。飯能戦争で新政府軍と戦い、20歳の若さで自刃した平九郎の手紙や遺書などが展示されていました。近年では幕末三大イケメンのひとりとも言われる平九郎の、太く短い波乱の生涯を知ることができました。
見学後は、駅前施設での昼食にて研究の進捗やこれからの進路などに話を弾ませたのち、解散となりました。
(写真左:晩香廬前にて/写真右:青淵文庫前にて)
奨学生の感想
奨学生の感想を、一部抜粋してご紹介いたします!
日本体育大学大学院(体育科学専攻)/韓国/2018年度【新規】奨学生
渋沢栄一の生涯にわたる、国のため・他者のために努力する姿勢を知りました。私もスポーツ科学を国内で発展させ、オリンピックなど大きな競技大会で活躍する選手たちを育成できる、時代の先をいく研究者になりたいと思いました。渋沢栄一と分野は異なりますが、私はスポーツを通して開発途上国の国民にもスポーツの文化を広めていきたいです。そのために、現在行っている自身の研究知識を広げるため、スポーツバイオメカニクスに限らず、様々なスポーツに関する知識を深め、国内外に貢献したいと思います。
日本女子大学(住居学専攻)/中国/2018年度【継続】奨学生
青淵文庫のモチーフがとても興味深いものでした。一番に目を引くのはステンドグラスの柏の葉の中央にある「壽」の文字、その周辺にどんぐり・唐草・雲なども見えます。「壽」の文字は絨毯にもあしらわれ、周りにはコウモリが描かれています。これは昔の中国でよく見られるモチーフで、コウモリ(蝙蝠)の「蝠」は「福」と同じ発音なので「福寿天斉」(天と共に福が有り、長生きする)の意味となります。慈禧太后(西太后)もこの柄が好きで、円明園の中にもよくあったそうです。時代を超えた昔の建物をみると、当時の工芸・信仰・生活習慣までもを知ることができます。私も自分なりの建築をつくり、時代を超えて私のことを理解できる人がいて欲しいと思いました。
青淵文庫 (国指定重要文化財)
渋沢翁の傘寿(80歳)と子爵昇格のお祝いを兼ねて、1925年に竜門社(現:渋沢栄一記念財団)が贈呈しました。ステンドグラスや装飾タイルなどが書庫に彩りを与えています。
晩香廬 (国指定重要文化財)
渋沢翁の喜寿(77歳)のお祝いで、1917年に清水組(現:清水建設)より贈られた洋風茶室です。渋沢邸を訪れた賓客をもてなすために利用されました。
渋沢栄一 (1840~1931年)
1840年、現在の埼玉県深谷市に生まれました。家業(農業・商業)を手伝う傍ら、尊王攘夷思想に傾倒するも、縁あって一橋慶喜(=徳川慶喜)の知遇を得て家臣となりました。
1867年、パリ万国博覧会に派遣される将軍名代・徳川昭武に随行し、ヨーロッパの文明に触れ感銘を受けました。帰国後その経験を活かし、民間の立場から約500社にのぼる株式会社・銀行などの設立・経営指導に尽力し、民間経済外交・社会公共事業に取組み近代日本の経済社会の基礎を作りました。
引用・参考文献
公益財団法人渋沢栄一記念財団 渋沢史料館発行
『渋沢史料館のご案内』(入館パンフレット)、『渋沢平九郎―幕末維新、二十歳の決断―』展チラシ